三船殉難慰霊碑と朱鞠内・強制労働博物館を訪ねて
オロロンラインを走る
幌加内町朱鞠内にあった「笹の墓標展示館」は、2020年冬、雪の重みで倒壊。その後継として日本や世界中の市民から支援と募金を得て再建されたのが「笹の墓標・強制労働博物館」です。2024年9月28日にオープンしました。戦争関連の博物館は数あれど、加害に特化し焦点をあてたミュージアムは稀です。一人ではなかなか行くのも億劫な場所なので、ツアーを作って欲しいと旅システムにお願いしていたところ、この度北海道宗教者平和協議会、北海道平和委員会の後援を得て旅が実現しました。私はどうしても催行してほしかったので、自分のフェイスブックで宣伝し、個人的にも旅行を愛する「旅とも」たちに「一緒にいきませんか」とお誘いをしました。それに応えて京都のOさんがご夫妻で、そしてOさんと親交のある滋賀のMさんもご夫妻で、2日間のツアーに参加するためだけで渡道してくれたのは本当に嬉しいことでした。朱鞠内は日本全国から集客できる魅力あるフィルードなのです。
バスは、日本海沿岸を国道231号線で北上、この日は羽幌まで通称「オロロンライン」を走りました。68年も北海道人でありながら初めて走る道で楽しかったです。
8月15日で終わらなかった樺太の地上戦
「三船殉難事件」それは1945年8月22日、樺太からの引き揚げ船3隻が、旧ソ連の潜水艦攻撃を受けた事件です。犠牲者約1700人の大半は女性や子どもでした。最初に小笠原丸(死者約640人、生存者61名)が増毛沖で撃沈されました。第二新興丸は留萌沖で攻撃を受け大破したが、留萌港にたどり着きました。死者・行方不明者は約400人、泰東丸は小平沖で撃沈され、乗客667人が命を落としたとされています。昭和の大横綱大鵬は2歳の時に小笠原丸に乗船、稚内で下船していたため、悲劇の難から逃れています。私の母と9人の家族は8月15日に泰東丸に乗船していました。1週間ずれていたら、私はこの世に存在していなかったかもしれないのです。ですからとてもひとごととは思えません。
3つの「碑」を見学しました。
1つめは増毛町暑寒沢墓地にある小笠原丸殉難の碑。
ここでは増毛町教育委員会の方から説明を受けました。
2つめは留萌市ふるさと館で学芸員さんから、歴史的背景などについてレクチャ―を受け「樺太引揚三船殉難平和の碑」を見学しました。3つ目は小平町鬼鹿の「三船殉難慰霊の碑」に手を合わせた後、道の駅おびら鰊版番屋の展示ホールを見学しました。
私がここで驚いたのは、1984(昭和59)年に至るまで厚生労働省が遺骨収集のための沈船の実地調査をしてこなかったことでした。たった1回で置時計など25点の収容物を回収しただけで、「泰東丸の船内及びその周辺に「遺骨が残っている可能性はない」と結論し、調査打ち切りを道と全国樺太連盟に通知したのです。ここには、戦争だったから仕方がないとする戦争受忍論を垣間見る思いでした。
樺太引揚三船殉難平和の碑(留萌市) |
三船殉難慰霊の碑(小平町) |
参加者の中から「日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を発表してから1週間後の8月22日になぜ攻撃された?」「旧ソ連が中立条約を無視して攻撃してくるのは卑怯でないのか」と疑問が出されました
私は次のように考えています。1945年2月にヤルタで連合国アメリカ、イギリス、ソ連の3首脳による戦後処理の会談が行われました。この際、米英は自国の犠牲を少なくするためソ連の参戦を強く要求。スターリンはドイツ降伏後3か月以内に対日参戦をすることを約束、その見返りとして南樺太及び千島列島の旧ソ連への引き渡し、帰属などを認めさせました。これは秘密協定でしたので、これが表になることはなかったのです。第一次世界大戦で、レーニンが戦争に勝利したとしても「無賠償、無併合」の原則を掲げた道徳的権威からすれば大きな逸脱です。ロシアが持つ大国主義、覇権主義の悪しき復活です。
4月5日旧ソ連は、日本に対し日ソ中立条約の破棄を通告した。この通告により、日ソ中立条約は1946年4月25日に失効することとなっていました。弱肉強食の帝国主義世界にあって、中立条約の破棄は敵対するかもしれないということです。当然予想して警戒をしなくてはならない。それを「一方的に8月9日に中立条約を破棄(無視)して攻め込んできた」と大宣伝するのは、反ソ反共をテコに自衛隊を認知させたいという思惑と重なるのです。ソ連の蛮行は許しがたいものですが、一応国際法にのっとり、「宣戦布告」はしているのです。わが国を振り返った時に「事変」「事件」と名のつくものは戦争でありながら、宣戦布告をしておりません。奇襲で日本が事を起こし、その後に宣戦布告をするのは日清戦争、日露戦争、アジア太平洋戦争に共通しています。
ソ連が行ったことで、無論シベリア抑留で連行し、強制労働をさせたことは非難されなくてはなりません。「北方」領土とされる歯舞群島、色丹島は北海道の一部であり、どさくさに紛れて奪った不法占領です。1956年の日ソ共同宣言で日ソ平和条約が締結されたら引き渡すと約束しているのですから、そういう方向で解決に踏み出すのは政治の責任です。
日本軍大本営は、8月16日には戦闘行為の停止を全軍に命じたが、同日札幌第五方面軍司令官の樋口季一郎中将は樺太第88師団に南樺太を死守するよう命じています。ソ連軍は南樺太各地への空襲を開始、ソ連軍の南樺太への進攻とともに日本軍との戦闘が続くこととなったのです。北の地上戦です。それは占守島など千島列島も同様です。その結果 豊原空襲では100人以上が死亡。真岡の電話交換手など住民の集団自決が相次ました。「終戦」後でありながら民間人を含む多数の犠牲者が出たのです。

事前に殿平善彦「和解と平和の森」高文研を読んでから参加しました。この本は実に読みやすい。そして、本当におもしろい。前半は推理小説を読んでいるような感覚でした。北海道・朱鞠内(しゅまりない)で行われた朝鮮人強制労働の歴史をつぶさに伝えてくれます。
殿平はたまたま友人とドライブで出かけた幌加内町朱鞠内光顕寺で、引き取られることなく預けられたままになっている70以上の位牌に遭遇する。ここから殿平の追及が始まった。
その地は、日本が中国大陸への侵略を本格化させる1935年から名雨線鉄道の工事が始まり、1941年に完成後は深川と名寄を結ぶ深名線と改称され、三井財閥系列王子製紙が北海道帝国大学演習林の払い下げで1938年から直径7尺もの大木を伐採し、43年までに雨竜ダムが建設された地だった。殿平は僧侶として、工事の過程で犠牲になった多くの朝鮮人の遺骨を発掘し、祖国に返還する事業を始めるが、それは一筋縄ではいかない。 差別と迫害、侵略の加害者と被害者はいかにしてつながり、相互の壁を乗り越えて「和解」に至ることが可能なのだろうか。向き合い、考える場所が朱鞠内なのです。
館長に就任した矢嶋さんから説明を聞いてから現地のフィルドワークをしました。
案内は一流のガイドです。
立体的によくわかりました。
みなさんもぜひ訪問してください。
(山本政俊・北海道歴史教育者協議会)