平和と教育を考えるツアー連絡会  
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平和の旅レポート
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「3.11から2年福島で日本のこれからを考える旅」2 2013年3月9日〜11日

カテゴリー: - admin @ 16時50分51秒

以前から行ってみたかった福島のツアーに友人2人と旭川から参加しました。

まず千歳空港から仙台空港へ。仙台空港も津波被害に遭った場所なので、

空港ロビーの柱に津波の高さを表示・記録として残してありました。

 

その後貸し切りバスで福島市へ移動。

あぶくま親水公園は除染作業中でしたが、線量計でホットスポットを計測。

砂利などのところは0.18マイクロシーベルト、

除染されてない草むらなどは1.8などと数値はまちまちです。

福島市は原発から60キロも離れているのですが、

結構線量は高いと感じました。

農民組合、復興共同子どもセンターのお母さんと交流。

尽きぬ不安と悩みをお聞きしました。

親水公園で東京からのツアー(120名)と合流、

総勢160名となったので夜の会食は修学旅行状態。

ちょっと楽しかったかな。

 

 

2日目は飯舘村の視察(公民館広場で地元の方のお話)。

村長が真っ先に逃げた話や老人ホームや8つの事業所が

村長の意向で残されているなど、聞いてビックリの話ばかりでした。

役場前にはモニタリングポストがあって表示は0.58マイクロシーベルト。

これにはちょっとカラクリがあって、周辺はもっと線量が高かったです。

 

午後から相馬市総合福祉センターにてシンポジウム

「2013.3.10in相双 福島再生の可能性はどこにあるか?」に参加。

コーディネーターは池田香代子さん

(ドイツ文学翻訳家『世界がもし100人の村だったら』の訳者)、

斉藤紀さん(医師・福島わたり生協病院)と

清水修二さん(福島大学副学長)の講演、

相馬・南相馬の農家・酪農家・母親他地元の方の発言がありました。

清水先生はスライドを使って、チェルノブイリと福島の事故を比較して詳しく話され、

斉藤先生は放射能による健康被害について話されました。

 

 

最終日は農民連直売所「のまど」に寄り、産直品の買物。

ここは浜通りの生産者が自立を目指して頑張っている拠点です。

次に行ったのが南相馬の小高区

(2006年原町市、鹿島町、小高町と合併して南相馬市となる)

南相馬の市の中で原発に一番近い地区が小高区です。

そこにある「希望の牧場・ふくしま」は、

東京電力福島第一原発から北西14キロの地点にあり、

牛の殺処分地域でしたが、殺処分をしないで牛の飼育を継続することを決め、

終末飼育経過観察をめざし、今後の放射能災害の科学データーを

集積するためとして発足したプロジェクトです。

元々は30ヘクタールの農場に300頭の和牛の繁殖、

肥育を手がけていたエム牧場浪江農場でした。

3月14日の3号機の爆発音が聞こえたし、

自衛隊のヘリが放水をするのが自宅ベランダから

双眼鏡で見ていたと言います。(白い噴煙も見えたそうです。)

ここの代表吉沢さんが何の情報も得られない数日を過ごしたあと、

東京に抗議に行く時タンクに「決死救命、団結」と書いたのは

遺言のつもりだったと言います。

被爆した多くの家畜たちが殺処分されたなか、

ここの牛たちが命を守られたのは権力に対しての抗議に他なりません。

今、全国からの支援を受けながら、

汚染した牧草を牛たちに食べさせて飼育をしています。

「汚染された牧草を食べさせられてカワイソー!」などという

受け取り方をしてはこの問題の本質を見失ってしまうでしょう。

次に小高の街に行きました。途中の道路沿い津波にやられた田畑はそのまま放置、

車等の残骸も放置されたままです。海が近い事に驚きました。

警戒区域が解除になって1年近く経つのである程度片付いていましが、

街に誰も居ないというのは奇異です。(街を歩いているのは私たちだけ)

小高には2つの高校(商業と工業)があって、

緊急避難をしたため自転車はそのまま放置されたといいます。

これが”国策”のナレノハテの姿です。

事故から2年経ち警戒区域だった地区が解除されて、

人の出入りが出来るようになってきました。

けれど不安無く地域で生活するにはほど遠い状態です。

 

 

福島から帰ってきてから、

ネットであちこち検索しながら随分いっぱい考えました。

私が生きている間に解決しない問題かも知れないけれど、

ずうっと考え続けていかなければならない問題だと思います。

“現地に行く”ということが、とても大事な事だと実感しました。

健康が許すなら、また来年もこのツアーに参加したいと思っています。

 

 

新婦人旭川支部 永沼 みどり