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平和の旅レポート
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リトアニア・ポーランド10日間の旅 (2014年6月9日〜6月18日)

カテゴリー: - admin @ 16時35分03秒

 

6月の中旬、私達が留守にしていた札幌や函館は、あたかも"エゾ梅雨"真っ最中の様な空模様だったらしい。

ところが帰って来てからというもの、何日も何日 もカラッと晴れ上がった青空が続き、

私は自分がまだリトアニアやポーランドの旅の続きにあるような気分にすらなった。

特有の赤レンガが美しいトラカイ城。その姿を映す湖面に吹き渡る涼しい風。小さな土産物屋のあの美しい女の子(多分、トルコ系?)・・・。

しかし一方、私の胸の中に重りのように居座り続ける"モノ"がなかなか私を平穏にはしてくれない。

この旅は、やはりそういうものだったのだなあ・・・と今もこの"モノ"に付き合い続けている。


「アウシュヴィッツ(ポーランド語ではオシフィエンチム)」に一度行ってみたい。

これは教師時代から時々フッと湧き起こる想いであり、そして勿論、小説や歴史書・映画・TV等を通してある程度の知識は持っているつもりであった。

つまり、アドルフ・ヒトラーとその親衛隊を中心とするナチス・ドイツが、第二次世界大戦中、約600万人のユダヤ人を、

普通の人間としては考えられない方法で大虐殺した・・・。

私の浅はかな思考力はほぼここで停止。600万人と言えば、ナチス・ドイツが戦争中占領した

ヨーロッパ各国に住んでいたユダヤ人のおよそ3分の1に当たる。これほどの大量虐殺が何故可能だったのか。

今回の旅で私の錆び付いた頭のゼンマイがカチッと少し動いた。

鍵を回したのは中谷剛氏(アウシュヴィッツ国立博物館専属日本語ガイド)である。

彼の説明は、一つ一つ実に丁寧であり、かつ抑制的でありながら、眼の前にあるおびただしい遺産、

遺物が私達に、もっともっと考えて欲しいと訴えているように感じさせるものであった。

私は中谷氏から宿題を出された生徒のような気持ちで帰って来た。例えば、戦後のドイツがいつ頃から、どのようにこの問題に向き合って来たのか。

対朝鮮・韓国との歴史問題というか、朝鮮に対する侵略戦争と植民地支配という問題を抱える日本。

中国に対しても同様。しかもきちんと過去と向き合おうとしない日本。

それに比べドイツは、1985年にヴァイツゼッカー大統領が連邦議会で行ったあの演説の一節『過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる』。

これを知った私は、このようなリーダーを生みだしたドイツを羨ましく思ったりもした。

しかし中谷さんの言によると、大統領はこの言葉をそれほど簡単に発し得たのではない。

当時の世界、ヨーロッパ国際教会の中で、ドイツの未来を考え苦悩の未発したものである、と。

又、中谷さんは、ヨーロッパの人々の中には、今もってユダヤ人に対する複雑な感情は続いている、と。

とりわけポーランドはヨーロッパ中で最もユダヤ人口が多かった国でもあり、

何世紀にもわたって共存して来た故の単純に割り切れない想いがあるのだろうか。

更に、同行者のお一人と中谷さんとの会話で、イスラエル共和国の現状をどう考えるべきかという問題に対し中谷さんは、

今はまだ、加害の側がひたすら許しを請う段階なのではないだろうか、というような事を言われていた。

ポーランド在住20年、ガイド歴17年の中谷さんの言葉は重く響いた。


旅の楽しみは、自然風景や行き交う人々、その地ならではの食べ物等いろいろある。

今回も勿論そうであって、重苦しいだけのものではなかった。

とりわけワルシャワ市郊外のジェラソヴァ・ヴオラ(ショパンの生地で白い小さな生家がある)で

たまたま聴けたピアノ・コンサートは本当に一筋の清流水に触れた想いをしたものであった。

 

  

伏木田良子(函館市在住)

 

 

人間の大罪を見つめて

 

「百聞は一見に如かず」とはよく言ったものである。

 

これまでいろいろな書物や写真、映画などからナチズムの異常さについては私なりに知っているつもりだった。

しかし、現地へ行って、この目で見て、肌で感じたそのおぞましさは想像以上だった。

アウシュヴィッツ第1収容所は、現在は資料館となっている。

ガス室へ送る前に刈り取られた膨大な量の髪の毛。何万足もの靴の山。

フリルのついた赤ちゃん靴あり、子供靴あり、素敵なデザインのハイヒールあり。

これらの靴の持ち主たちの無念が伝わってくる。

何故、私たちの人生がここで失われていくの……。何故、何故、何故……。

その声が、息づかいが、私の耳に迫ってくる。

ナチスのSSが撮ったという四人の少女の等身大の裸像があった。

せいぜい8・9歳というところか。まだ胸の膨らみもない幼い少女たち。

生体実験にされた少女たち。子どもを生まなくするための実験。

狂ったナチスは、少女たちの体を使って、ユダヤの種を絶滅するための実験を行った。

 

アウシュヴィッツ第1収容所から2キロ離れた所に広大な敷地を占めている第2収容所ビルケナウがあった。

300以上のバラックが建ち並び、アウシュヴィッツより規模が大きく、一大殺人工場だったという。

写真で見ていた鉄道引き込み線が「死の門」へ向かって伸びている。

このレールを使って、たくさんの人々が運び込まれ、ガス室へと送られたのだ。

列車で連れて来られても、収容所に入りきれず、そのままガス室へ直行させられた多くの人々。

毎日あまりに多くの人が連行されて、ガス室の機能が果たせず、そのまま野焼きにしたという窪地。

その人骨を砕いてまいたという池。そのことごとくが七十年前のままに存在している。

 

ナチスの敗退が明白となり、彼らはその非道なやり方を知られるのをおそれ、

ガス室をダイナマイトで次々と破壊して逃げた。

消し去ろうとして消しきれない残骸のレンガ(外壁)だけが痛々しく山積みされている。レンガは叫ぶ。

「私たちは人類史上例を見ない非人間の仕業を外側から囲っていたのです。

私たちは全てを見ました。殺されていく大人の、子どもの、赤ちゃんの瞳に絶望の光が灯るのを。

絶望から救ってやれなかった私の絶望もまた例を見ない絶望だったのです。

この悪事の数々を世界の人々に晒すために、私はこの地で頑張るのです」

打ち砕かれたレンガは声を限りにそう叫びたかったに違いない。

「私たちは残骸であることに意味があるのです。私たちは悪行の数々を包み込んできました。

今こそ、ガラクタになったからこそ、私たちは存在価値があるのです」

レンガに口があったら、きっとそう言っていたように思う。

私にとってアウシュヴィッツは衝撃であった。

 

救いは、ヨーロッパのたくさんの中高生がアウシュヴィッツとビルケナウで学んでいたことで、

日本の歴史教育との違いをまざまざと見せつけられた。

若者たちよ、あなた達の澄んだ目でしっかり見て、もっともっと平和な世界を作ってね、

私は心の中でエールを送り彼らに向かってシャッターを何度も切った。

リトアニアの杉原記念館で聞いた当時8歳だったというフルマさんの話も圧巻だった。

祖父、両親、兄をナチスに殺され、彼女一人が生き残った。

非ユダヤの人に育てられて今日に至った、と彼女は静かに語った。

81歳とは思えない美しい眼差しとお顔の表情。語り尽くせない苦難を体に負った人のみがもつ美しさか。

とても意義のある旅でした。

 

  

室崎和佳子