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平和の旅レポート
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「沖縄平和を考えるツアー2015」  2015年1月29日〜2月2日

カテゴリー: - admin @ 13時19分19秒

「沖縄平和を考えるツアー2015」  2015年1月29日〜2月2日 

旅システムの企画「沖縄の平和を考える旅」に参加してきました。

沖縄には以前から行きたいとは思っていましたが、沖縄の平和問題に触れずに

観光はしづらいと思い、ずっと沖縄には行くことができませんでした。

ところが、昨年の「オール沖縄」の勝利の後に今回の企画を知り、

何とタイムリーな企画!と参加を決めました。

私は、「普天間」「嘉手納」が島のどこにあるのかも

わからない程度の沖縄の知識でしたから、今度の旅行で、

『聞くものと見るものとでは大違い』という経験をさせてもらいました。

最初に訪問したのは、瀬長亀次郎さんの「不屈館」でした。

ここでは、初めて知ることがいっぱいでした。「アメリカへの宣誓拒否」

「那覇市長時代、アメリカによる市の銀行口座凍結に対し、市民の行列を作っての納税」

「沖縄90万人が叫んだら、太平洋を越えてワシントン政府を動かせる。」と言う

瀬長演説等々。「不屈館」に『オール沖縄』の源流がありました。

二日目には、沖縄戦の史跡を一日かけて回りました。

「アブチラガマ」や「南風原陸軍病院壕」に入ったのは衝撃的でした。

1.8m四方の通路程度の地下壕のトンネル。その片側半分に

2段の病床が作られ、その一部は手術場にもされていました。

痛みをこらえる唸り声、麻酔も無い中、鋸で手足を切断する音。叫び声。

「日本軍人がこれしきの痛みで・・」と怒鳴る軍医の声。感染症から脳症になり、

患者の上を跳びまわる兵士。汚物が垂れ流される。

その中を看護で走り回る女子学徒たち。頭の中はこんな様子でいっぱいになりました。

壕やガマを見学して初めて感じた沖縄戦でした。

最後は、青酸カリを無言で渡す軍医。

「生きて虜囚の辱めを受けず・・」と言い残した

牛島司令官の命令が多くの死者を出すことになったようです。

こういう思いを親族や友人知人が経験した島が沖縄なのですね。

アジアやヨーロッパと違って日本には戦争の痕が少なく、

戦争の悲惨さを感じられるものは、原爆、大空襲と沖縄だけなのです。

ここへ行かなければ戦争に触れられないのです。

ここに、アジアと日本の温度差、本土と沖縄の温度差があるように思います。

戦争をしているアメリカも戦争の『現実』を本当は知らないのかもしれません。

沖縄は、自衛隊ではなく米軍基地・米軍の演習場がいたる所にある、きな臭いところでした。

辺野古キャンプシュワブの座り込みに合流してきました。

基地の入り口に立つ警備員に話しかけ続ける車椅子の人。

みんなにわかってもらって仲間を広げようという運動の様です。

今は、那覇市・名護市からバスの運行もされていました。

「島ぐるみの運動」になっていることも感じてきました。

高江の伊佐さんはとても優しい語り口の方でしたし、

奥さんは、参観日の教室の後ろに並んでいるような普通のお母さんでした。

最終日には旅行団と安慶田副知事、

金城那覇市議会議長が懇談の時間をとってくれました。

副知事は「新基地反対の信念は変わらない。」と、市議会議長は、

「盛り上がったのは、(『軍の強制による集団自決』を削除せよという)

教科書問題からだ。」と言っておられました。

大城共産党元市議が言っていた「オール沖縄は、

県民の誇りと尊厳を取り戻す戦い」と言う言葉が甦ってきました。

最後に、旅行団を代表して木元団長が安慶田副知事に、

ウィルタの「願いが叶う」と言う木彫りをプレゼントしました。

「知事室に飾ります。」と受け取っていただきました。

沖縄から基地がなくなることを強く願って、十勝からも支援を続けたいです。

 

 

 

芽室町 岡田幸造 

 

 

 

 最初に素晴らしい企画をしてくださった「旅システム」に感謝したいと思います。

沖縄旅行は今迄3回参加しており、「もう沖縄はねぇ」という感もありましたが、

去年「第50回矢臼別平和盆踊り」に参加し、基地のど真ん中で闘い続けて来た

亡き川瀬氾二さん、その後引き継いで頑張っている人たちにふれ

、平和の原点をもう一度見つめ直したいと思い、旭川から仲間6名で参加しました。

連日新聞に報道されている辺野古・高江の闘いを見て

「少しでもカンパ・寄せ書きを持って行きたいね」と話し合い、

手分けして新婦人や共産党の集会で訴え、寄せ書きとカンパ57,000円集まりました。

当日千歳に集合すると懐かしいメンバーがずらり総勢25人。

すっかりうち解け楽しい雰囲気に。最初の見学は、私が一番行きたかった

那覇空港からバスで20分足らずの路地裏に入った小さな建物「不屈館」。

出迎えてくれたのは、瀬長亀次郎さんの次女・内村千尋さん。

民衆から愛され、どんな弾圧にも屈せず正義を貫き通した

亡き父・瀬長亀次郎さんの人となりをエピソードも交えて話してくれました。

狭い部屋に資料がびっしり、その中に「県民よ! 今こそ立ち上がろう、

迫りくる嵐から子、孫を守るガジュマルになろう 強く深く根を張って、

沖縄の大地と海を守ろう! 連帯の握手を送る  瀬長亀次郎」

のポスターが壁に貼られていました。

夜は元共産党那覇市議団長・大城さんから

「オール沖縄」がなぜ出来たのか聞きました。

 

2日目は、平和委員会・与儀さんのガイドで、南風原文化センター、

沖縄陸軍病院南風原壕群、ひめゆり資料館、平和の礎・平和記念資料館、

糸数の壕、嘉数の丘(普天間基地)と沖縄戦跡めぐりでした。

沖縄戦では約20万余の尊い命が亡くなりそのうち約14万5千人が沖縄人。

悲惨な傷跡がいたる所に。薄暗い壕の中で麻酔もなく切断手術、

膿や血の臭い、患者の呻き声、撤退時には動けない患者に青酸カリ、

そんな想像を絶する状況の中でも慰安所が有ったとは!

・・宿泊はペンション「まーみなー」。オーナーの会沢芽美さんと再会し感激。

夕食後みんなで芽美さんの伴奏で歌を歌い、

最後はカチャーシーを踊って深い眠りにつきました。

 

3日目は、同じく与儀さんのガイドで、安保の丘に行き嘉手納基地を眺める。

面積が羽田飛行場の約2倍・東京ドームの400倍・嘉手納町の82.5%を占め、

その残りで住民が暮らしている。基地の中は広く何でも揃っており、

従業員の制服までも思いやり予算で支給。

住宅地の上を航空機が飛び騒音被害は常態化しているとの事でした。

辺野古テント、キャンプシュワーブ前ゲート、高江では沖縄の声を無視して

強引に米軍基地がつくられようとしている実態を目のあたりにし怒りで体が震えました。

抗議の座り込みに一緒に参加し歓迎の拍手を受けました。

参加者から「カンパ!」との声が上がり帽子が回りそれぞれ5万円以上集まり現地に手渡しました。

4日目は観光で、美ら海水族館、今帰仁城跡、古宇利島に行き、

ハイビスカス、満開の桜、青い海、イルカのショーなど思う存分楽しみました。

最後の日は、安慶田副知事、金城那覇市議会議長との懇談。

元自民党の大幹部だったお二人から「保守系だったら何をしても良いのか、

安保が支持されているから何をしても良いのか」と怒りの言葉が聞かれ、

政党間の垣根がなくなり「オール沖縄」の力強さを感じました。

また旅行中に、奥平康弘(9条の会呼びかけ人)さんと、

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」と云った

ワイツゼッカ元ドイツ大統領の死亡、イスラム国に拉致されていた

後藤健二さんの殺害が報じられ何か歴史的なものを感じました。

沖縄の闘いが日本の夜明けに通じるそんな気がする旅でもありました。

 

 

旭川 万年孝子