平和と教育を考えるツアー連絡会  
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平和の旅レポート
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「べトナム平和と交流の旅」 2015年6月11日〜17日

 

「長年の夢と思いがかない6月中旬、ベトナムへ旅してきました。
今回の旅の主な目的は、ベトナム戦争終結40年という節目の年に、最大の激戦地だったケサン基地の跡地と、
北緯17度線非武装地帯、地下トンネルetcを見学することでした。
その他にも、戦争中にアメリカ軍が撒いた枯葉剤による影響を受けたドクさんと交流したり、ツーヅー病院を視察。
そして戦争証跡博物館や統一会堂、南ベトナム解放戦線の象徴的なクチトンネルの見学も。
もちろんフエのグエン朝王宮観光やミーソン遺跡観光、古都ホイアンの美しい街並みや市場など、楽しいこと、珍しいことも一杯の旅でした。

どれもこれも私にとっては、初めてで印象深い旅でしたが、特に印象に残っているのは、
ツーヅー病院での出来事でした。ドクちゃんのことは赤ちゃんの頃から新聞を通して知っていました。
下半身が一体となって生まれた双子の兄弟のベトちゃん・ドクちゃん。小さい頃に足を1本ずつ分け合って体を分離した彼ら。
残念ながらべトちゃんは数年前に亡くなりました。でもドクちゃんは、28歳の時にツーヅー病院でボランティアをしていた女性と結婚し、
今は男の子と女の子の双子のお父さん。2人に枯葉剤の影響はなく、日本を象徴する山と花の名前を持った2人の子供たちは、
今年の9月には小学生。今ドクちゃんは34歳。日本で新聞を通してしか知らなかったドクちゃんですが、とても身近に感じました。
ツーヅー病院は、枯葉剤による影響を受けた子供たちのために作られました。そこの平和村では、
今も60人位が暮らしています。能力がある子は、専門学校や大学に行き、その後ここで働いている人もいるとのこと。
最初に案内された部屋には、枯葉剤による影響で、生を受けることなくホルマリン漬けになった子供たちの見本が多々ありました。
枯葉剤の影響は、この子達で終わる訳ではなく4代にも渡って続いているそうです。
アメリカは、枯葉剤による影響についていまだにベトナムに対して補償しようとしていません。

もう一つ私にとって嬉しかったことは、1974年頃、ベトナム支援の寄付をした時に
ベトナムの人がくれたジェラルミンの指輪をツーヅー病院に返せた事です。
この指輪は、ベトナムの人達が撃ち落としたアメリカ軍のB52で作ったものです。
いつかベトナムに行くことがあったら、この指輪をベトナムに返してあげよう。そう思ってずっと大事にしまっておきました。
多分、たくさんの日本人が同じ指輪を持っているだろうと思っていましたが、そうでもなく、
タン先生に喜んで受け取って頂き、私は大感激でした。私がベトナムに来た、最大の目的は指輪の返還でしたから。

指輪でずっと疑問に思っていたことがありました。何故あんな激しい戦争中に、
撃ち落とした飛行機から指輪なんか作れたんだろう?その疑問は、クチトンネルを見学した時に解けました。
地下3階にもなるトンネルの中には、会議室だけではなく、生活のために必要な色々な施設を備えていたのです。
もちろん厨房、裁縫工場、戦利品のタイヤから作るゴムサンダルの工場、不発弾etcを自分たちのために利用できるようにする工場等々。
ありとあらゆるものがそのトンネル内で作られていくというその前向きさ、したたかさ。
しかも彼らは、女性でも昼間は鉄砲を担いで農業もするという。もう本当にびっくりです!
これじゃあ、アメリカが勝てる訳がない。皆も同意見でした。

ホーチミン市には、戦争終結のシンボルとなっている旧大統領官邸だった統一会堂や、戦争の傷跡を今に伝える戦争証跡博物館もあります。
石川文洋さんや中村悟朗さんらの写真もありました。

今回の旅の主目的であるケサン基地は、北緯17度線に設けられた幅10kmに及ぶ非武装地帯から
南に25kmにあるケサンの町のすぐ北側に作られた巨大な基地でした。
基地の跡地は、すでに大きな町となり、山の上の方に跡地の痕跡が少し残っているだけです。
ここは米軍唯一の空軍基地で、5万人もの米兵がいたそうです。
この基地は、北と南の物資の補給ルートであるホーチミンルートを潰すために作られました。
海抜400Mの山の上に作られた広大な基地の跡に残っているのは、戦闘機が数機と入り組んだ壕と見張り小屋etc。
ここで米軍はベトミンと戦いましたが、1968年に北ベトナム軍から猛攻撃を受け、最終的にケサン基地から撤退、米軍が負けるきっかけとなりました。
そしてケサンでの戦争を世に伝える博物館には、少数民族のことも。
彼らがホーチミンルートを守り、決してそのルートのことを漏らさなかったそうです。

帰途、少数民族の子供たちと交流。高床式の家に住み、裸足で遊ぶ子供たち。
20人近い子供たちが集まってきて、写真を撮らせてもらったり、お礼にポンカンゼリーやゆず味のキャンデーをあげたり。
つぶらな瞳の子供たちに、心が洗われるような気持になりました。

山をずっと下って行くと、北緯17度線に。
人しか歩けない橋を皆で渡り、記念撮影。昔、ベトナム戦争を支援し、新聞紙上によく出て来ていた17度線。
そこを自分が歩いていることがとても不思議でした。

ヴィンモックトンネルは、北緯17度線の少し北側にある、地下都市トンネル。
1300~1400人も暮らせるという。2〜4人家族用の地下の部屋は90にも及ぶ。生活していたのは304人位。
ベトミンもいたよう。ここには助産室もあり、何人もの赤ちゃんが生まれている。
このトンネルは大きく、幅90〜130cm、高さ160~190cm。とはいえ1家族ごとのスペースは狭い。
こんなところに6年もいたなんて、ベトナムの人達の根気強さには本当に頭が下がります。

南のホーチミンから中部のフエ・ダナン・ホイアンへと行きましたが、ベトナムの人達はどこでも友好的で、
道路はオートバイに乗る若者たちで溢れ、とても活気に満ちていました。
ただ、道路を横断するのは命がけです!ベトナムの食べ物は、野菜が中心で味付けもあっさりしていて、日本人には人気です。
ついあれもこれも食べ過ぎて、お腹の調子が狂うのが欠点かも。

世界遺産では、15世紀に国際貿易都市として栄えたホイアンの美しい街並みがとても印象に残っています。
ここには1000人位の日本人が住んでいたらしく、1593年に日本人が建造したという日本橋が今も残っています。
ここの市場でのおばちゃんたちとの値切り交渉も楽しかったです。そしてここはランタン祭りでも有名。
夜になるとあちこちのランタンに灯がともり、とても風情があって綺麗です。

ベトナムを旅して一番強く感じたことは、戦争は絶対にダメだという事です。
今の日本は、大義のないアメリカの戦争のために、若者の命を粗末にしようとしている。
自らの命や家族の命、村や祖国を守って確信をもって戦ったベトナムの人達の戦とは全く違うのです。
私達も戦争法案と戦わなくては!

 

 

札幌  杉田悦子