平和と教育を考えるツアー連絡会  
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平和の旅レポート
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中国東北地方歴史と文化の旅   2016年8月26日(金)〜9月1日(木)

私が生まれた地・斉斉哈爾市を訪れて

 日中友好協会北海道支部連合と旅システムの企画で2016年8月26日〜9月1日の6泊7日で行われた「中国東北地方歴史と文化の旅」に参加しました。なんと、この旅の日程に私達姉弟が生まれた地、斉斉哈爾市がふくまれており、私の戸籍に刻まれている場所に案内してくれるというのです。姉夫婦と妻によびかけたところ参加してくれ、特別な旅になりました。

 私は1945年5月「満州国龍江省」斉斉哈爾市永安街184号で生まれました。父は教員をしていました。2年ごと離れた姉2人がいました。父は1945年7月19日に斉斉哈爾市からの招集で兵役に就きました。北安方面の部隊に入隊したようですが、すぐに敗戦、シベリア送りとなりハバロスク市の西方約400kmのイズベストコーワヤ地区クリードールで死亡したことに「なっています」。
 「なっています」というのは、戦後スターリン、ロシアが公表している多数の死亡者名簿には載っていないのです。母が、行方知らずになっていた父の存在が姉の就職に支障になると判断して、死亡公告を受け入れ、私が高校2年の時に葬儀を行いました。
 母は1946年9月に5歳の長女を筆頭に2名の幼子を引き連れて父の故郷北海道に引揚げ、1人で私達を育ててくれました。父母は7年間、斉斉哈爾市で生活しています。訪れた私達姉弟が生まれた場所は近代的な住宅団地になっていました。
 母は生前「終戦の間近にあるも露知らで子らと送りぬ我も手を振り」の短歌を残しています。母と私達3人が手をふり別れ、2度と私たちの前に現れることができなかった地に今立っていると思うと感慨深いものがありました。

 斉斉哈爾市というと忘れてならない事件、日本軍が遺棄した毒ガス兵器による被爆事件があった地でもあります。2003年8月4日斉斉哈爾市内の団地で地下駐車場を建設中に5つのドラム缶が見つかりました。パワーショベルの歯がドラム缶に突き刺さると、中から液体が流れだし周辺に辛子のような刺激臭が立ち込め、それは後からマスタードと言いわれる毒ガスでした。
 作業員達はそのことに気づかず作業を進め被爆してしまいました。さらに汚染土が5km離れた斉斉哈爾市第5中学校の校庭に整地のために運びこまれ、たくさんの山ができたところ、近所の子供たちが土遊びをはじめ、これまた被爆してしまいました。
 被爆者はしばらくすると大きな水ぶくれができ苦しんだのです。被爆し入院した44名の内、1名が死亡するというものでした。私たちはそのドラム缶のでた地下駐車場と子供たちが被爆した中学校校庭を訪れました。13年前にそんなことがあった地とは思えない場所でした。
 しかし被爆した人々は現在も苦しんでいるのです。斉斉哈爾市にはかって関東軍の化学部隊の615部隊と同訓練部隊の526部隊が駐屯していました。それら部隊は悪名高き731部隊と連携し化学兵器の人体実験もしています。その615部隊の駐屯地も訪れました。すでに廃墟状態で保存されていてその部隊遺址であることを示す鉄製の名盤が掲示されています。またその隣には今も使われているガラス工場があります。そこでは広島県大久野島で作られていた毒ガスを充てんし、毒ガス弾として製造していたとのことでした。

 ホテルで日本軍の遺棄毒ガス兵器に関する研究をされている黒竜江省科学院歴史研究所副所長の高暁燕(カオ シャオイェン)先生(「日本軍の遺棄毒ガス兵器〜中国人被害者は訴える」の著者)と交流することができました。高先生は私たちが訪れたことを大変喜んでくれ戦後70年以上過ぎて今も中国の人々を苦しませていることを、多くの日本人が知ってほしいと話されました。

 日本には2005年12月に設立された「化学兵器CAREみらい基金」が中国人被害者支援活動をしていることもわかりました。私も微力ですがこれら団体の取り組みに協力するなどしたいと思っています。


  

河野 紘(日中友好協会苫小牧支部)