長沼平和ツアーに参加して
北海道にしては厳しかった夏の暑さがまだ残る9月の第一土曜、是非とも参加したいと願っていた長沼平和ツアーに参加することが出来ました。きっと52年前の1973年9月7日(自衛隊違憲判決と平和的生存権を勝ち取った長沼訴訟第一審判決の日)も、住民の命や暮らしこそが大切にされる、そんな真の平和を願う多くの人々の心は、この日の暑さ以上に熱い思いに満たされていたことだと思います。
9月6日(土)朝、札幌駅を出発、途中、恵庭事件の陸上自衛隊島松演習所の近くを通り約1時間ほどで長沼へ、その道中、バスの中では北海道教育大学の前田輪音さんが、昨年北海道に来たばかりの私たち夫婦にもよく分かるように、丁寧に長沼ナイキ基地訴訟について説明してくださいました。
長沼に着いて、まず馬追運河水門・排水機場をバスから見学し、その後、薮田亨さん(長沼町議会議員・長沼平和委員会)と合流して、野呂栄太郎の生地に建つ記念碑公園に向かい、農民碑、そして富士戸1号ダムを通って航空自衛隊長沼分屯基地のゲート下で薮田さんの説明を受けました。
低地帯で古くから川の氾濫に苦しめられてきた長沼町では排水機場を設置したり、山の保水力を維持する為に植林したり、自分達の命と暮らしを守る為に、その治水対策として住民が不断の努力をしてこられました。その山の森林を伐採してミサイル基地を設置するというのです。1968年の事でした。驚いたことには、山の森林に代わる代替施設としての富士戸1号ダムの貯水機能はバケツ数杯分とのことでした。翌69年、自分たちの暮らしを守るために町民は訴訟を起こし、住民は勿論のこと、青年や学生たち、多くの方々の支援によって1973年9月7日、福島重雄裁判長による画期的な第一審判決を勝ち取ったのでした。この判決は今も、住民の命や暮らしを守る、そんな真の平和を願う多くの人々の支えとなっていることを思います。
私は、1999年から20年余り米軍基地のある山口県の岩国で牧師として、幼稚園の園長として暮らしてきましたが、その頃、安倍政権は「積極的平和主義」を掲げ、軍事力を強化することが国民の命と平和な暮らしを守ることだと基地を拡張し、強化させてきました。
しかし現実は全く逆で、基地があるがゆえに岩国に暮らす私たち住
民の生活は、昼夜を問わず戦闘機の爆音に苦しめられ、米兵達が起こす事件や事故に脅えて暮らさなければなりませんでした。
国を守るという事と市民を守るという事とは違うのでしょうか。
基地に反対する岩国の人が、「基地は危地」とよく言っておられましたが、基地が強化されることによって周囲の国々との摩擦はさらに大きくなり基地が攻撃目標にされる危険すらあると思うのです。
2006年には、そんな岩国基地が厚木基地からの空母艦載機部隊を受け入れるか否かを巡って住民投票が行われました。元々保守的な地盤で議会や市民の中には補助金を目当てに賛成する人たちも多くいましたが、「戦闘機の爆音や米兵の犯罪に苦しめられずに安心して暮らせる街を未来を生きる子ども達に残したい。」「自分たちの愛する街を戦争の拠点にはしたくない」と多くの人たちと共に声を上げ住民投票は成立し、艦載機部隊受け入れ反対票が賛成票を大きく上回りました。それから20年、凄まじい国の圧力と金によって、艦載機部隊は移駐されてしまいましたが、長沼の判決を勝ち取った闘いと同じく、20年前の住民投票は今も岩国で基地に対して反対の声を上げ続ける人たちの大きな原動力になっています。
長沼平和ツアーの最後、薮田ファームでジンギスカンを皆でいただきながら交流の時が持たれました。一人ひとりの命や暮らしこそが大切にされる、そんな平和への熱い思いがそれぞれに語られました。みんな笑顔でした。また、「平和米」の取り組みもお聞きし、さっそく注文しました。
朝ドラ『あんぱん』の、「本当の正義の味方は、戦うより先に、飢える子どもにパンを分け与えて助ける人だろう。そんなヒーローを作ろうと思った。」という、やなせたかしさんの言葉をかみしめながら、パレスチナやウクライナなど、世界中の人々が笑顔で暮らせる、そんな平和な世界の実現を信じて出来ることをなしていきたいと思わされています。
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日本キリスト教団 岩見沢教会牧師 大川 清