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平和の旅レポート
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台湾歴史と文化の旅

カテゴリー: - admin @ 18時27分33秒


台湾歴史と文化の旅(2012年7月26日〜30日)

初めての台湾-発見の連続

 一度も行ったことがない台湾。ツアーの企画に申し込み、催行を念じながらスケジュール調整をしました。青木さんから催行決定の電話を受けたときは「やった−!」と心の中で叫びました。
 日本が50年余りも植民地支配を行った台湾。35年間植民地化された朝鮮半島の人たちは「日帝36年」と恨みをこめて言います。しかし台湾人の受け止め方はちょっと異なるという説もあります。どこに違いがあるのか?そんなことを現地に立って考えてみたいと思ったのでした。
 家族にスケジュール表を送ると、「九份と228和平記念館へ行くのであれば、映画『非情城市』を見てから行った方が良い」と言われたのが出発3日前。レンタルショップには無く、出発前日に着くということでアマゾンの特急便を注文しました。前日帰宅すると不在配達通知が待っていました。やや諦め気分で出発日の午前配達を依頼(12:30には家を出るのでくれぐれもずれこまないようにしてほしいと頼む)しました。出発当日期待せずにいたところ、10:15に到着。パソコンを開いて二倍速で(ウィキペディアの解説を横に置いて)見終えて家を出ました。
 訪れた九份は、血生臭い白色テロとは似合わないなかなかエキゾチックな町でした。観光客でにぎわう映画の舞台となった坂やレストラン(酒店)も見ました。
 直前に訪れた金爪石黄金博物館も日帝支配の爪痕が残されていました。特にガイド朱さんが教えて下さった「シンガポールから送り込まれたイギリス人捕虜500名」の強制労働については全く知らなかったので勉強になりました。銅の採掘はたくさんの有害毒物を垂れ流します(大きな木が育たない。陰陽海。金山の現地労働者が早死にするので未亡人が多い)。人的・自然的被害は甚大です。明治期の足尾鉱毒事件をとっさに連想しました。
 宜蘭でも植民地支配の痕跡が生々しく残っていました。宜蘭設治記念館の展示は詳しく興味深いものでした。日本の神風特攻隊に参加させられた台湾人の人名や犠牲者の数はいまだわかっていないようです。旧日本軍の通信所跡、原住民族(タイヤル族)を制圧したあと、彼らが狩った首と彼らの武器を埋めた「獻馘碑」。
 原住民博物館。高砂族(生蕃)とは原住民族の総称です。実にたくさんの少数民族が分布していることが詳しい展示でわかります。ここでは日本語ができる学芸員の方が詳しく説明してくださいました。なかでも阿美(アミ)族は母系社会で一妻多夫であること。雅美(ヤミ)族だけは首狩りの風習が無い事。首狩りは彼らにとっては残酷な行為ではなく象徴的な意味を持っていること。海辺に住む部族は狩猟で生計を立てるが、内陸に住む部族には日本の指導もあり農耕が普及したこと。またある程度文明化した部族を平埔族と呼んだことなど勉強することばかりでした。
 台湾はこのような多くの原住民族の上にオランダ・清朝・客家・日本・中国国民党という折り重なるような支配の連続があったこと、また統一した国民国家形成がそのためにさまたげられていったことなど、朝鮮との違いに気づきました。中国国民党の支配も(これは連合国の決定)非常に暴力的で、知識人や民衆を信頼せず、当然のごとく民衆の支持を得られなかった。これが1947年の228事件へとつながったのだと感じました。知識人・民衆が求めた民主化要求は圧殺され、白色テロにより多くの人々がいわれなく殺されたわけです。翌1948年に朝鮮の済州島で起こった白色テロ、チェジュ4・3事件と同時代の暴力として把握する必要があります。日本帝国主義の支配の終焉と連合国の占領がそこにからんでいるのです。228和平祈念館は民進党の時代に初めて建設され、犠牲者の復権がなされましたが、馬英九の政権になると展示内容も変わるというように政治に左右されています。それだけ傷跡が深く評価が定まっていないのでしょう。
 故宮博物院は大勢の人でごった返していましたが、ガイド朱さんのポイントを押えた案内で効率良く見ることができました。様々な宝物に圧倒され、これをよく大陸から運んだものだという思いしきりでした。わたしは陶磁器がことのほか好きなのでフリータイムにはこれを見ました。

 

 最終日午後のフリータイムには孫文にまつわる国父祈念館と国父史蹟祈念館(「梅屋敷」という日本旅館でもう日本では見られないものです)に足を運びました。双方の展示は面白く、後者の展示中に孫文ら同志と撮った宮崎寅蔵(滔天)の若き頃の写真がありました。多くの日本人が孫文を支援していたのです。
 5日間、食事は最高に美味しかったです。この旅システムは食事の良さで定評があります。台湾料理・北京料理を満喫し、夜市散策しながらマンゴー・ライチ・台湾バナナ・モンキーバナナに下鼓を打ちました。マンゴー1個300−400円という日本の十分の一の値段でした。
 そしてわたしにとって今回のツアーの何よりの収穫は、現地ガイドの朱清義さん(80歳男性)と言う方にめぐりあえたことでした。植民地時代に農家に生まれ、小学校教育(皇民化教育)を受け、創氏改名を体験し、日本軍に徴兵され、一等兵として金門島で地下道路工事をしながら敗戦を迎えたという植民地時代の体験者です。その後高等科で学んだ技術で映画館の映写技師を20年間。香港でガイド10年。その後日本で学び日本語に磨きをかけガイド資格を取ったこの方は、とても80歳とは思えない精悍な方で、説明も正確・的確でした。すっかり打ち解けて手紙で植民地時代のことを教えてもらうことを約束しました。一介の庶民として生きたこういう方が日本の植民地支配をどのようにとらえているか知りたいと思います。

 とにかく盛りだくさんの楽しい旅でした。大いに勉強し発見し、大いにリフレッシュしました。旅システムに感謝です。ありがとうございました。



2012年8月1日 T・R